Survival Story
実際のサバイバル経験を本作に伝授した
スティーヴン・キャラハンの76日間の漂流生活
本作には、本物の海のサバイバーが参加した。その人物、スティーヴン・キャラハンは実際に大西洋で遭難し、小型ヨットの中で衝撃的な76日間を過ごした。当時の体験を記した著書「大西洋漂流76日間」はベストセラーとなり、その20年後、作家ヤン・マーテルは小説「パイの物語」中でキャラハンに触れている。その映画化に取り組んだアン・リー監督にとって、キャラハンを公式なサバイバル・マリン・コンサルタントとして撮影に招いたことは完璧で自然な流れだった。
リー監督はキャラハンが経験した多くのストーリー、例えば食事の用意の仕方や、どんなふうに彼の乗っていたボートの隣から巨大な青いクジラとその子供が現れたかなどを映画で再現するため、それらの詳細に魅了された。主要な撮影に立ち合ったキャラハンは、パイ役のスラージ・シャルマと心理的な要素について討論し、小道具にも携わった。「私にとって、ボートは大変すばらしい人間の創造物だ。それは乗り物であり、家であり、芸術でもあるからだ」。キャラハンが語る。「自然界にさらされる人間が抱く哲学と思想にいつも関心があった。しかし私は小型ボートで遭難するまで、どれだけそれらが重要であるか気づいていなかった。私が自然界を愛する限り、物事を探求しようとする人間の側にも関心がある。これこそパイの物語につながり、アン・リーが映画で表現しようとしたことだ。彼の視点から考えると、映画の主題は私たちの人生におけるストーリーの重要性なんだ」。
ちなみにキャラハンが経験したサバイバルは次の通りだ。1982年、質素で小さな船に乗り、イギリスを目指してアメリカを出航したキャラハンは、その約1週間後、嵐に見舞われた。船に何かがぶつかり、大量の海水が流れ込んできたため、彼は大西洋のど真ん中で救命ボートに飛び乗った。これが長い漂流生活の始まりだった。
救命ボートのひさしは太陽から身を守るのに十分ではなく、持ち合わせていたのは寝袋のようなものやスポンジ、第二次大戦中のパイロットのために作られた蒸留機といった基本的な海用のサバイバル装備だけだった。キャラハンは主に熱帯地域の海で見つかるシイラという大きな魚などを捕って食べ、真水を作ったりしてサバイバルを続けた。
キャラハンはこのような状況では、ただ寝転んで誰かの助けを待つのはいい考え方ではなく、可能な限り普通の生活を送るために働き続けることが重要だと語る。「毎朝起きて、舵をとり、運動をして、航海記録をつけ、魚を釣り、修理する。わずかな魚と飲料水しか持っていない私は、ひさしの上を沈んでいく太陽を見て、これこそが人生のあり方だと感じたよ」。やがてキャラハンがグアドループの沿岸近くのマリーガランテ島にたどり着いたのは、航海に出て76日後のことだった。そのとき彼の体重は1/3が失われていた。
「あのサバイバルはとても貴重で、スピリチュアルな経験だった。救命ボートで遭難していたときに見かけたもののいくつかは、他の方法では決して見たり、経験できなかったものだった。それらは信じられないほど力強く、時に美しく、また恐ろしくもあった」。そして「自分がよりアクティブな社会のメンバーになることを悟った。私はサバイバルを乗り越え、より良い人間になろうと決めたんだ」と語るキャラハンは、最近になって白血病と診断された。この異なるサバイバルの試験を通過するため、彼は大西洋での遭難で学んだあらゆる経験を駆使している。
「人生は消えることはない。リスクはある」。キャラハンは言う。「リスクから逃れることでリスクを軽減しようとする人がいるが、私にとってはそれこそがリスクなんだ」。
スティーヴン・キャラハン
(サバイバル・マリン・コンサルタント)
メイン州生まれ。サバイバーであり、作家、哲学者でもある。大学で哲学と芸術を専攻し、その研究に情熱を見出す一方、高校在学中に25フィートサイズの小型艇で海を単独で旅し、空に頼る航海の仕方を学んだ。1982年、6年の結婚生活が破局を迎え、人生最大の転機が訪れる。小さな船で海を渡るという長年の夢を叶えるためにアメリカを出航するが、大西洋で嵐に巻き込まれ、救命ボートで76日間もの漂流生活を体験。アン・リー監督に招かれて本作にコンサルタントとして参加し、そのサバイバルで得たさまざまな経験を伝授した。
実際にあった6つのサバイバル・ストーリー
1983年、タヒチからサンディエゴへ一艇のヨットを運んで半分ほど来たところで、タミ・オールダム・アシュクラフトと彼女の婚約者リチャード・シャープはカテゴリー4のハリケーンに襲われた。
アシュクラフトのボートは転覆し、彼女は頭をぶつけて気絶。27時間後に気づいたときには、ボートは元通りになっていたものの、パートナーのセーフティライン(落水を防ぐために体と艇をつなぐ安全索)は切れ、彼の姿はなかった。アシュクラフトは間に合わせの帆を作り、1500マイル(2414km)離れたハワイに進路をとり、40日間の航海の末に無事に到着した。だが、婚約者はついに見つからなかった。
2009年、ふたりのミャンマー人が、船が沈没したあと1ヶ月近く、赤いアイスボックスにつかまって何百マイルも漂流し、オーストラリアの沖合で救助された。
このふたりの男はタイの漁船に18人の乗組員と一緒に乗っていたが、クリスマスまであと2日というときに嵐に襲われた。他の乗組員たちは跡かたもなく姿を消したが、ふたりはアイスボックスに貯めた雨水を飲み、小さな魚を食べて生き延びた。
第二次大戦中、ドイツのUボートの攻撃に遭った商船が沈没し、67人の英国人船員が20日間、1200マイル(1931km)を漂流して奇跡的に生き延びた。
彼らは救命ボート4艇で、ウォータービスケット(小麦粉と水に塩と脂肪を加えたクラッカー)、レーズン、それに素手で捕まえたわずかな魚を食べて生き延びた。一等航海士モーリス・ケースの日記には、クルーがどれほどひどい飢餓と低体温症に襲われたか、何度もひどい暴風雨にびしょ濡れになり、何日も寒さに耐え抜かねばならなかったかが記されている。その間に亡くなった3人を水葬せざるをえなかったが、残りの船員は1943年2月、ついにアンティグアの陸地に到着した。
第一次大戦時の航空パイロット、エディ・リッケンバッカーと彼の乗組員たちはハワイから南太平洋の空軍基地を目指して飛び立ったが、海上に機が墜落。
多くの乗組員が墜落時に怪我を負いながらも、8人が3艇の救命いかだに避難し、少しのチョコレート・バーとオレンジを食べ、さらに釣り針と紐を使って20日間を生き延びた。飢餓のためにひとりが亡くなったが、ツバル(太平洋中南部の9つのサンゴ島からなる国)のヌクフェタウ沖でアメリカ海軍の哨戒機が彼らを見つけた。生存者たちは全員、太陽にさらされて日焼けし、脱水症、それに飢餓状態に近かった。
太平洋に住む3人のティーンエージャーが、アタフ島(別名:デューク・オフ・ヨーク島)から小さな金属ボートで家へ帰ろうとしたが、強い潮流のせいで予定の進路を外れて流された。
両親は500人の家族や友人らとともに彼らの死を嘆き、葬式を出したが、3人の少年は太平洋を漂流していた。50日間経って、彼らはマグロ漁船に発見されて救助された。3人は1000マイル(1609km)以上を漂流し、魚やカモメを捕って食べることで生き延びた。救助される2、3日前には、海水を飲み始めたために命が危ない状態だった。彼らは病院で重度の脱水症、飢餓、日焼けの治療を受けた。
1973年、マリリンとモーリス・ベイリーは31フィート(9.449m)のヨットでパナマ運河を航海中、一頭のクジラと衝突し、船体の腹に大きな穴があいた。
ふたりは救命いかだと空気でふくらませるボートの2艇をつなぎ合わせ、オイルバーナー、地図、コンパス、水の容器など基本的なサバイバル・ギア、それにわずかな食料を確保。ふたりは結局、117日間を海上で過ごした。食料が切れたときには、海ガメ、海鳥、魚、サメを素手で捕って食べた。韓国の漁船に救助されたとき、ふたりはそれぞれ45ポンド(20.41kg)近く体重が減っていた。